開場/開演情報・チケット販売期間
チケットの種類・料金帯
全-料金帯
0円 ~ 0円
-
ご利用可能支払方法
-
- 購入方法について
プログラム
きょうは、みなさんといっしょに、このお肉をヴァイオリニストに育てていきます──
なぜわたしたちは「美しい」のか?
西洋の音楽を背負い、演じてきたヴァイオリニストが、不都合な肉体を描き出す。
2025年度 金沢21世紀美術館 芸術交流共催事業「&21+」採択事業・かながわパフォーミングアーツアワード2026ファイナル選出作品が、満を辞して東京公演を迎えます。
【公演概要】
2026/5/20(水)
14:00*|19:15**
全2回公演・パフォーマンスは60分程度を予定・開演30分前より開場
*14:00回は未就学児入場OK
**ポストパフォーマンストーク有り
場所:SCOOL
〒181-0013 東京都三鷹市下連雀 3-33-6 三京ユニオンビル 5F
*エレベーターあり
【プレイガイド】
一般 ¥3,000|学生 ¥500
Teket(電子チケット)
https://teket.jp/10243/64832
メール予約・問い合わせ
ayakokatoviolin@gmail.com (加藤綾子宛)
特設サイト:https://ayako-kato.com/immeat26tokyo
出演者
加藤綾子(ヴァイオリニスト/主催・作・出演)
ヴァイオリニスト。日本やアジア圏における“クラシック音楽的な身体”を通して、人々の振る舞いの現在地を探る。洗足学園音楽大学および同大学院弦楽器コースを首席卒業(修了)。ベルギー・ナミュールの音楽院「IMEP」修士課程を、学年最高得点にて修了。これまでの主な作品に、リサイタル「形式を呼吸する」、パフォーマンス「ヴァイオリニストによる(メタ)フィクション」「アイム・ミート!」「あなたではない」など。2025年、KAAT「カイハツ」、舞台芸術専門家派遣事業バンコク派遣アーティストに採択。かながわパフォーミングアーツアワード2026「MVP賞」受賞。
【トークゲスト】
14:00回:Aokid(ダンサー/アーティスト)
東京造形大学映画専攻の在学中より美術や舞台芸術の制作を開始。大学卒業後、アーティスト・ダンサーとして活動する中でダンサーのKENTARO!!や批評家の木村覚の企画などに参加。
2012年に架空の街を作るをコンセプトに”Aokid city”、2016年に代々木公園を舞台にゲリラパフォーマンスイベント”どうぶつえん”、2019年より渋谷の陸橋の上で集まり踊り、そしてビールを片手に未来に向けて話す”STREET RIVER & BEER”といった企画などを実施。
近年は上演、ワークショップといった形態のシームレスな変形可能性や、身体運動を通しての環境の知覚と景色の繋がりや関係性について考えている。
19:15回:カニササレアヤコ(お笑い芸人/雅楽演奏家/ロボットエンジニア)
お笑い芸人・雅楽演奏家・ロボットエンジニア。笙・楽琵琶・右舞・歌などを演奏し、雅楽ネタで芸人として活動するかたわら、人型ロボットなどのアプリ開発を手掛ける。早稲田大学文化構想学部・東京藝術大学邦楽科雅楽専攻卒業。
現代音楽の演奏で複数音楽コンクールにおいて受賞したほか、Naoyuki MANABE GAGAKU Emsanbleメンバーとして「創造する伝統賞」を受賞。
「R-1ぐらんぷり」決勝、「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」、「笑点特大号」などの番組に出演し、2022年にはForbes JAPANにより「30 UNDER 30(世界を変える30歳未満30人)」に選ばれている。
みどころ
ステートメント──『アイム・ミート!』初演時より
〈アイム・ミート!〉は、クラシック音楽をルーツに持つヴァイオリニストによる、音楽家の身体をめぐるレクチャー・パフォーマンスです。
コンサートでも、レクチャー・コンサートでもありません。
レクチャー・パフォーマンスとはなにか? という定義に関しては、専門家による答えを待つとして──というのは、その形式や手法がとても多岐に渡るので──わたしが個人的に、この形式を選んだ理由を述べることにします。
今回のパフォーマンスにおいて、主体となるのは、作家/出演者であるわたしの語りと振る舞いです。”クラシック音楽をルーツに持つヴァイオリニスト”による、語りと振る舞いが、本作では展開されます。
実を言えば、本作のクリエイションにおいて、まっさきにリサーチしたのは「レクチャー・パフォーマンスとは何か?」ということでした。わたしがこの形式を知ったきっかけは、共催事業「&21+」に応募する直前、2024年12月に、ユニ・ホン・シャープ氏によるレクチャー・パフォーマンス『ENCORE – violet』を観たことです。そこでは、レクチャー=講義でもなく、さりとて演劇的でもなく、あまりにラフで、たどたどしい暴力の再現があり、朴訥とした手紙の朗読がありました。ありていにいえば、「作家が、作家自身の態度とことばで語っている(ように見える)」。その事実がわたしを打ちのめしました。なぜなら、わたしは、舞台に立つアーティストが、アーティストみずからのことばで語る作品がありえることを知らなかったからです。
その事実こそが、わたしを“クラシック音楽をルーツに持つヴァイオリニスト”たらしめていたのです。
もちろん、演劇や舞台芸術のシーンでは、「その人自身」で演じること、語ることは珍しくはないでしょう。ただ、なんというか、あえて誤解を恐れずに言うなら、その語りの“ふつうさ”。異質な“ふつうさ”を、「レクチャー・パフォーマンス」いう形式が呼び起こしているということが、わたしのなかで強烈な食い違いを起こしました。(いちおう書いておくと、おそらく、レクチャー・パフォーマンスの定義自体に“ふつうさ”は関わりないと思います)
わたしはなぜ、これまで、わたし自身のことばで語ろうとしなかったのか?
わたし自身のことばとは、なにか?
わたし自身の振る舞いで、舞台という俎上に立つことに、いまだためらいがあるのは、なぜか?
わたしは、自分自身のことばで語ってこなかった。であれば、これまでいったい、だれのことばで、だれの身体を借りて、舞台に立ち続けてきたのか?
“クラシック音楽をルーツに持つヴァイオリニスト”として、わたしが行ってきた/行ってこなかった語りをまなざすこと。それが、肉(ミート)にたどり着くまでの、ひとつの出発点となったのでした。
加藤綾子
動画
お問い合わせ先
メールアドレス:ayakokatoviolin@gmail.com
応援コメント(0)