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プログラム
F.リスト : ハンガリー狂詩曲第2番(ミュラー=ベルクハウス編)
Franz von Liszt : Hungarian Rhapsody No.2 (arr. by F.Muller-Berghaus)
A.ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調 作品104
Antonín Dvořák : Cello Concerto in B minor Op.104
A.ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調 作品88
Antonín Dvořák : Symphony No.8 in G major Op.88
出演者
指揮 : 野村 英利
Hideto Nomura, conductor
チェロ独奏 : 三井 静
Shizuka Mitsui, cello
管弦楽 : 横浜シンフォニックアンサンブル
Yokohama Symphonic Ensemble, orchestra
〜出演者プロフィール〜
指揮 : 野村 英利
Hideto Nomura, conductor
和歌山生まれ。ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院指揮科を首席で卒業、修士号を取得。
これまでにドイツ、フランクフルトで行われたショルティ指揮コンクールに入選、第54回ブザンソン国際指揮者コンクールセミファイナリスト、第8回ルイジ・マンチネッリ国際オペラ指揮コンクールにおいてファイナリストに選ばれるなどのコンクール歴を持つ。
ザルツブルクモーツァルテウム管弦楽団との共演のほか、イタリアのサンレモ交響楽団、チェコのボフスラフ・マルティヌー・フィルハーモニー管弦楽団、スイスのバーゼル交響楽団等各国のオーケストラと共演を重ねる。オーストリアの現代音楽専門アンサンブルOENMの指揮者として、ヴェルディ音楽祭、ウィーンモデルンに日本人指揮者として初めて参加するなど各国の音楽祭に出演。現代音楽の分野において高い評価を得る。これまでにモーツァルトの《魔笛》ヴェルディの《椿姫》《イル・トロヴァトーレ》など多くのオペラを手掛けいずれも成功させ、さらに活躍の場を広げている。
近年作曲家としても活動の場を広げ、ミュージカル《マッチ売りの少女》が兵庫県赤穂市において初演され好評を博した。
チェロ独奏 : 三井 静
Shizuka Mitsui, cello
(Photo credit: Anoush Abrar)
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団チェリスト。
第80回日本音楽コンクール、第15回東京音楽コンクールなど国内の多数のコンクールで入賞、国外では、ジョルジュ・エネスコ国際コンクール、ブラームス国際コンクールなどでの入賞をきっかけにソリストとしても活動中。
これまでにチェロを岩井雅音、毛利伯郎、ジョバンニ・ニョッキ、クレメンス・ハーゲンの各氏に師事。桐朋学園大学ソリストディプロマコースを経て、ザルツブルク・モーツァルテウム大学在学中にミュンヘン・フィルハーモニーの団員になる。
★★ 本日の指揮者 野村 英利さんご出演の演奏会のご案内 ★★
2023年1月31日(18:45開演、18:15開場)、板橋区立文化会館大ホールにて、NPO法人いろはリズム主催の演奏会「協奏曲への挑戦 vol.2」が開催されます。
指揮は野村英利さん、管弦楽はアンサンブル・ミラコです。
ご興味のある方は、是非以下URLにアクセス頂き、チケットお申込の方よろしくお願いいたします。
https://ensemblemiraco.wixsite.com/miraco/concert
また以下URLには、NPO法人いろはリズムが主催する各種コンサート情報も掲載されております。是非ご覧いただければと思います。
https://www.iroha-rhythm.com/iroha-event
★★ 本日のチェロ独奏 三井 静さんによるリサイタルのご案内 ★★
来たる2/5(日)三軒茶屋駅前のサロンにて、本日チェロ独奏者の三井静さんと、ピアニストの古田友哉さんによるデュオリサイタルが開催されます!
ご興味のある方は、是非以下URLにアクセス頂き、チケットご購入の方よろしくお願いいたします。
https://teket.jp/3768/18660
みどころ
今回は東欧の作曲家による名曲プログラムをお届けします。指揮者には、2020年以来3年振り2度目の野村英利先生を、ドヴォルザークのチェロ協奏曲のチェロ独奏には、横浜市出身で現在ドイツのミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団にてご活躍されている三井静先生を招聘いたしました。
今回のプログラムも、馴染み深いメロディを含む素晴らしい名曲揃いです。是非お楽しみください。
~プログラムノート~
F.リスト : ハンガリー狂詩曲第2番(ミュラー=ベルクハウス編) (原曲:1847年作曲、編曲:1870年出版)
リストは9歳にしてピアノリサイタルを行った早熟の天才。空前のスター演奏家の登場に世間は沸き立ち、彼の名を冠したグッズが飛ぶように売れたという。やがて彼はパリでサロンの寵児となり、そこで出会った文化人たちに強い影響を受けた。ローマの古典から同時代の文学までおびただしい読書量を示し、次第に彼の活動には思想的な影響が覗くようになる。一見、単なるコンサートピースに思われる楽曲であっても、実はリストの芸術的思索や熱い理想を内包しているのである。
ピアノ独奏のための『ハンガリー狂詩曲』もこうした背景から生まれた作品のひとつ。1846年から1885年にかけて作曲された全19曲からなるアルバムである。このうち最も有名な第2番が書かれた1847年は、革命の嵐“諸国民の春”がヨーロッパに吹き荒れる1848年を目前にした時代。大国の支配にあえぐ弱小民族が自律を求め、「自分たち」を結びつける民族的なアイデンティティを称揚する活動が盛んに行われていた。リストはドイツの家系に生まれドイツ語を母語として育ったにも関わらず、ハンガリー王国に生まれたことをよりどころに、自身をハンガリー人だと考えていた。その誇りを胸に、支配者オーストリア帝国に対抗する“ハンガリー民族”の歴史と精神を体現する音楽を書こうとしたのである。
リストは当時ハンガリーに多く住んでいたロマの人々の音楽「チャールダーシュ」を参考に、哀愁に満ちた前半と快速で華やかな後半という二部構成で楽曲を組み立てている。リストはその生涯を閉じるまで繰り返しこの曲集を愛奏し、直弟子ドップラーとともに管弦楽編曲(1875年出版)も行っている。ドイツ人ヴァイオリニスト・指揮者・編曲家のミュラー=ベルクハウスによるこの編曲(1870年出版)はカラヤン、ストコフスキーといった往年の名指揮者が取り上げたため、近年より多い演奏機会に恵まれている。
A.ドヴォルザーク : チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 (1895年)
― 結ばれなかった、しかし生涯忘れることのない恋は、
ふたりがこの世を去れば消えてしまうのだろうか。
チェコの小さな村で宿屋兼肉屋の息子として生まれたドヴォルザーク (1841-1904)は、豊穣な民俗音楽の伝統の中で育った。宿屋で踊り、歌う人々に混じってヴァイオリンを弾く中でドヴォルザーク特有の朗らかな楽想が養われていく。音楽家として活動を始めた青年ドヴォルザークの生活はつつましいもので、ピアノ教師をして生計の足しにしていた。生徒の中には姉妹がおり、姉はソプラノ歌手のヨゼフィーナ、妹は美しいアルトの声をもつアンナといった。ドヴォルザークはヨゼフィーナに深く恋する。けれどヨゼフィーナは彼の想いに応えてはくれず、貴族と結婚してしまった。のちにドヴォルザークは妹のアンナと結婚し、たくさんの子供たちに囲まれた幸せな家庭を築く。義理の姉ヨゼフィーナとドヴォルザークもまた、深い友情で結ばれた、よき理解者になった。
ベートーヴェンの重圧とアメリカ時代
ドヴォルザークの音楽は豊かなメロディーと民俗的色彩が最大の魅力。しかし確かな構造も必要だと考えたドヴォルザークは、若い頃から西ヨーロッパの伝統的なスタイルを学んだ。特にベートーヴェンへの意識は根強く、偉大な先人に学ぼうとする努力が作品の数々に刻まれている。しかしそれは後世のファンから見ればぎこちなさにも映る。ドヴォルザークの個性と魅力は、ベートーヴェンの似姿には収まりきらないからである。
1892年、51歳のドヴォルザークは新設された音楽院の院長になるためにアメリカへ渡った。故郷の土と人を深く愛した彼はたった3年で在外生活を終わらせてしまうが、その経験はドヴォルザークの音楽に驚くべき飛躍をもたらした。交響曲第9番「新世界より」に始まり、弦楽四重奏曲「アメリカ」、そしてこのチェロ協奏曲で終わりを迎えるアメリカ生活において、ドヴォルザークは初めて完全に自分の語法を手に入れる。もはやチェロ協奏曲に、ベートーヴェンの幻影は必要なかった。
ニューヨークのドヴォルザークは、かつて恋したヨゼフィーナが重い病に伏しているという報せを受け取る。彼は当時制作中だったチェロ協奏曲の第2楽章にヨゼフィーナが好んだ歌曲「ひとりにさせて」(Op.82-4)の旋律を取り入れた。後の初演にあたりドヴォルザークはソリストと激しく対立し、別の奏者に変更させている。名人芸を誇示するような独奏部分を書き加えられたことに激しく反発したのである。この協奏曲が含んだ内面とかけ離れた音楽になってしまうことを、ドヴォルザークは恐れたのだろう。
ドヴォルザークが任期を待たず帰郷した直後に、ヨゼフィーナは息を引き取った。ドヴォルザークがベートーヴェンの幻影を乗り越え、ついに自分の音楽を手にする最後の後押しをしたのは、生涯忘れられない想いだったのかもしれない。
A.ドヴォルザーク : 交響曲第8番 ト長調 作品88 (1889年)
チェコの森から広い世界へ
ドヴォルザークは現在のポーランドとの国境に位置する静かな村ヴィソカーの別荘で、多くの名作を生んだ。そのうちの一つである交響曲第8番は、夏の緑と初秋の木立の中で書き進められた。既に国際的に作曲家として評価を高めつつあった時期に生まれたこの作品は、脂の乗りきった筆による伸びやかな旋律と、ボヘミアのリズム、陰影豊かなチェコの表情に彩られている。首都プラハの人々は大いに共感し、初演は熱狂的に迎えられたという。
この交響曲は「イギリス」という名で呼ばれたこともあった。というのも、ドヴォルザークはこの交響曲をきっかけに、長年契約を結んでいたドイツの出版社ジムロックと袂を分かち、イギリスの出版社ノヴェッロへと鞍替えしたからである。ジムロックはブラームスから紹介された出版社だったが、安い作曲料で小品ばかり書かせようとするので、ドヴォルザークは反発を感じていたとされる。
背景にはドヴォルザークとイギリス音楽界との急速な接近があった。彼は第8番の作曲に先立つ1884年にロンドン・フィルハーモニック協会の招きで初訪英すると、すぐに新たな交響曲(第7番)を委嘱された。その後もイギリス各地から招待されて、自作を指揮して大喝采を受けている。なおドヴォルザークは、1891年にはケンブリッジ大学から名誉音楽博士号を授与された。このとき彼が指揮したのは、交響曲第8番と《スターバト・マーテル》であった。いずれも、イギリスで最も高く評価された作品である。
当時イギリスでの評価は世界的に影響力を持つものだった。演奏会の反響が伝えられると、ドヴォルザークの元には新作の委嘱や作品の買い取り依頼が相次ぐようになる。しかし彼の望んだのは、個人的な成功以上にチェコの歴史や文化を外国にアピールすることだったと言われている。チェコの英雄、聖人、また民族舞曲といった題材をもとに作曲するドヴォルザークは「民族的色彩をもつ国際的な作曲家」として認知されていった。
彼の名声は遠くアメリカにも伝えられ、ニューヨークのナショナル音楽院の院長として招かれることになる。そこでドヴォルザークは、黒人霊歌をはじめとするアメリカの音楽に影響を受けていくのであった。交響曲第8番は、今まさに世界に羽ばたこうとする「チェコのドヴォルザーク」の魅力が最も色濃くあらわれた作品である。
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ
ソナタ形式。チェロを主体とした優美な哀歌で始まり、フルートの先唱をオーケストラ全体が躍動感ゆたかに展開していく。めまぐるしく顔を出す多彩な旋律はドヴォルザークの大きな特徴である。
第2楽章 アダージョ
自由な3部形式。弦が奏でるメランコリックな旋律に、木管楽器を主体としたやわらかい音楽が起伏に富んで展開される。フルートとオーボエの明るい旋律が忙しい伴奏の上に登場し、やがてコンサートマスターが朗々と主旋律を引き継ぐ。これをうけてオーケストラは急速に活気を呈するが、長くは続かない。静と動を自在に行き来しながら、やがて消え入るように終わる。
第3楽章 アレグレット・グラツィオーソ
3部形式。ヴァイオリンの躍動的で哀愁を帯びた旋律にワルツ風のトリオが挟まれ、結尾にはトリオ部分の旋律が華やかに変形される。一般に、優美な2楽章に対して3楽章には速いスケルツォが置かれることが多いが、ドヴォルザークは2,3楽章ともにゆったりとした3部形式を用いている。
第4楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
変奏曲形式。トランペットの輝かしいファンファーレで始まり、変奏主題がチェロによって提示される。これは第1楽章冒頭でフルートが奏した旋律から編まれたものである。主題を十数回にわたって変奏しながら、曲は次第に熱狂を深めていく。再びチェロに主題が提示されて静かに変奏が始まり、やがて喧騒のうちに華々しく幕を閉じる。
音楽評論 鉢村優
1988年生まれ。曲目解説やインタビュー、翻訳を中心に執筆活動を行う。
東京大学経済学部卒、凸版印刷株式会社勤務を経て、東京芸術大学大学院音楽研究科(音楽文芸)修士課程 修了。
Webサイト http://yuuhachimura.wixsite.com/yuuhachimura
お問い合わせ先
その他のお問い合わせ先:お問合せ先 : 横浜シンフォニックアンサンブル事務局
Email : teien@yse.sakura.ne.jp
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